1971年に起こった出来事を項目別にまとめてみました!!
50代の上司との会話の参考にしてみて下さい!!
- 1971年何があった?
- 特撮テレビドラマ『仮面ライダー』放映開始
- 日本に環境庁発足。
- マクドナルド日本第1号店「銀座店」オープン。
- 円変動相場制移行。
- 日清食品が「カップヌードル」を発売。カップ麺の先駆けとなる。
- 中華人民共和国が国連加盟。中華民国(台湾)は事実上の追放。
- まとめ
1971年何があった?
1971年といったら今から約50年前!新入社員で入社した方はまだ生まれていませんね!
そんな若い方はこの年代に生まれた方に「え~まだ生まれてないの!?若いね!」
という会話を何度もされて飽きているかなと思います。
調べてみると1971年はマクドナルドの日本第一号店が出来たり、円が変動相場制になるなど歴史的な転換点が多くありました!
以下、主な出来事をまとめました。
特撮テレビドラマ『仮面ライダー』放映開始
仮面ライダーがスタートした年です。私達の世代は昭和第3期シリーズのブラックなど
を見ていたのでは!?今は仮面ライダービルドですよね。
仮面ライダーは昭和シリーズ、平成シリーズ合わせて29作品にもなります。
今は昭和シリーズが10に対して平成シリーズ19で平成シリーズの方が作品数が
上回っています!
日本に環境庁発足。
当時は日本の経済発展に環境対策が追いついていない時代でした。
各地で水俣病や四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害が発生していました。
その対策のため以下の流れで環境庁が設立されました。
1956年に水俣病が正式発見。1967年に公害対策基本法が施行。1970年内閣に公害対策本部を設置。
そして1970年に環境庁が発足されました。現在は庁から格上げされ環境省になっています。2012年からは今まで除外されていた放射性物質も公害物質となりました
マクドナルド日本第1号店「銀座店」オープン。
貿易会社「藤田商店」社長の藤田田(ふじたでん)がアメリカのマクドナルドとフランチャイズ契約を結び、日本に1号店が出来ました。
藤田田は日本トイザらスの社長でもあり、自らを「銀座のユダヤ人」と自称していました。
当時アメリカの本社からは自国同様郊外での展開を要求してきましたが、藤田が銀座が
流行の発信地であるとし銀座での出店に決定しました。
その目論見は大成功し、日本でハンバーガー文化が浸透していくきっかけとなりました。
円変動相場制移行。
今は1ドル105円ほどですが、当時は1ドル360円で固定という固定相場制がとられていました。
その固定相場制は、1945年のブレトン・ウッズ体制(金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた金本位の体制)から始まっていました。
しかし、1971年、時の大統領ニクソンが他の国が発展してきたので金とドルを十分に換金できなくなったことから換金を一時中止します!と突然宣言しました。(ニクソンショック)これにより固定相場制が崩れ、日本も変動相場制へと変化していきました。
日清食品が「カップヌードル」を発売。カップ麺の先駆けとなる。
日清社長の安藤百福(あんどうももふく)がアメリカにチキンラーメンを売りに行ったら丼と箸の文化が無く売れなかった事が開発のきっかけになりました。
その後、いつでもどこでも食べられる容器入りのインスタントラーメンとして開発されました。インスタントラーメンもマクドナルドと同じ銀座で初めての販売を行い大ヒットを記録しました。
現在は世界80カ国以上で展開しています。
中華人民共和国が国連加盟。中華民国(台湾)は事実上の追放。
第二次世界大戦後、蒋介石の率いる中国国民党の中華民国が中国の代表として国連の常任理事国となっていました。
しかしその後、中国国民党は毛沢東率いる中国共産党に内戦で負けて台湾まで逃げます。
そして、毛沢東の中華人民共和国も中国の代表であると国連に訴えていました。
しかし、長らく国連では中華民国が中国の代表であるとされていましたが、アメリカがベトナム戦争での中華人民共和国の協力を得るために中国の代表を中華人民共和国へ継承する事に合意をし、国連の決議を持って中華人民共和国が中国の代表となりました。
それにより中華民国が国連を脱退しました。
まとめ
1971年はマクドナルドやカップラーメンなど現在の代表的なファーストフードが誕生した記念すべき年ですね。
また台湾と中華人民共和国の問題は現在でも続いており、当時とは比較できないほど経済力を持ってきた中華人民共和国と台湾が今後どのような関係になっていくかは隣国の日本として注視していかなければなりませんね。